あれから、俺たちの家族は壊れてしまった。八尺様は圭太の「身体」こそ連れ去られなかったが、それ以外のすべてを奪い去った。
あのとき圭太が部屋を出た直後、部屋の外が暗くなり、冷たい黒い壁のようなものが忽然と現れ、俺と親父は部屋に閉じ込められた。壁の中からは肉声のような、しかしそれにしてはあまりに異質な「ぽ」という低い音が断続的に聞こえていて、それが八尺様という怪異であることが直感的にわかった。
覚えているのはそこまでだ。それでも、あの音を思い出すたびに襲ってくる強烈な悪寒が、なにかただ事ではない恐怖体験に遭遇したという事実を示していた。
目を覚ますと廊下に圭太が倒れていた。息もあり、俺はただ圭太が無事であることに安堵した。
しかし、すぐに目を覚ました圭太の第一声に俺たちは絶句する。
「もう邪魔しないでね」
あまりにいつもどおりの笑顔だった。たしかにそれは圭太なのだが、俺はその笑顔に得体の知れない不気味さを感じてしまった。
それから圭太は毎日一人自室にこもり、聞くに堪えない嬌声をあげながら自慰にふけるようになった。射精ができない苦しみからなのか、狂ったように床や壁に頭を打ち付け暴れまわることもある。力尽きると静かになって、起きてはまた繰り返す。
妻は圭太が八尺様に魅入られたことが判明した日からずっと不安定だったが、変わりゆく圭太に耐えきれず、ついには自殺未遂を起こし、それからは精神病院に入院している。面会で俺の顔を見るたび「圭太を返して」と叫び錯乱するため、病院側から面会を断られるようになった。
親父とは日怪研の話や、責任の押し付け合いで口論続きだった。
監視をやめた日から、最近村で発生していた連続失踪事件がピタリと止まった。事件が八尺様の仕業であったことを確信した親父は、圭太が原因だと世間に知られたら一族ごと世間に殺されるといい、圭太を人柱に立てろ、つまりは生き埋めにしろと言った。
俺はさすがに我慢ならず手をあげてしまい、親父に怪我を負わせてしまった。勘当だと叫んだ親父は実家に帰って、もう連絡をとっていない。どうやら本気だったようで、母から内密に、母の生まれ故郷の和歌山に夫婦で引っ越しすることになったと教えられた。
俺は圭太と二人になった。圭太は食事を部屋に持ち込み一人で食べる。貼り付けたような笑顔でご馳走様でしたという他に会話はない。その態度を叱ったり、監視拘束したことを謝ったり、妻の話をしたりしても全く聞こえていない様子でただ空の一点を凝視するばかり。口を開いたかと思えば、どこで知ったのか「うなぎがたべたい」「牡蠣がたべたい」とだけ繰り返す。
一度、圭太の汚れた身体を拭こうと夜に扉を開けたとき、またあの黒い壁と音に遭遇した。頭の中であの音を思い出したときの何倍もの悪寒に襲われ咄嗟に扉を閉めると、悪寒も音もたちまち消え去った。
きっとあの壁の向こうで、圭太は八尺様に遭っているのだろう。それがわかっても、あの悪寒には耐えられそうもなく、それからは扉に手をかけることもできなくなってしまった。
ある日の昼、会社に近所のドラッグストアから電話があり、圭太がで精力剤を万引きしたことを告げられ、警察を交えて事情聴取を受けることになった。
圭太は警察に対して父親に頼まれたと言い訳していた。俺が人のせいにするなと叱っても、壊れた機械のように「失敗してごめんなさい」と繰り返した。そもそも精力剤を万引きする理由など説明できるはずもなく、俺は平謝りすることしかできなかった。
警察から厳重注意を受け、児童相談所からも指導された。
精力剤の万引きのことは噂として近所に広まったようで、外を歩くと視線を感じるようになった。それと関係があるかはわからないが会社からは地方への出向を命じられた。到底引っ越しできる状況でもなく、会社に異議を唱えるような根気もなく、俺は退職願を提出するほかなかった。
俺の家庭は完全に崩壊した。あの化け物は俺から全てを奪った。あれは世間が言うような妖艶な怪異などではない。人の不幸を貪る正真正銘の邪悪だ。
いっその事、圭太を連れ去ってしまってくれたらと何度も考えてしまった。そんな自分がたまらなく情けなくて、すべてを諦め自死を決意した。駅のホームから足を踏み出そうとしたその瞬間、ほんの数ヶ月前の、すべてが当たり前だった頃の家族の記憶が脳裏をかすめた。
今の自分と比較して暗くなることを恐れて、思い出そうとしなかった、明るい記憶。妻や圭太を残して死ぬことの無責任さを恥じる気持ちでは止められなかった足が踏みとどまった。どうしても取り戻したいと思った。
だからこそ、あの化け物と対峙し、この手で圭太を、家族を取り戻すことを決意した。怪異相手に何ができるかなんてわからない。でも、俺にはもう失うものはなにもない。
それからすぐ、八尺様に対峙する方法を模索した。悪寒に苛まれながら、黒い壁への侵入を試みた。ただ、いかなる方法でも、傷一つ与えることはできなかった。
でも、八尺様に直接対峙する何らかの方法はあるはずだ。村の事件では大人も失踪している。噂ではそいつは怪ポ製造業者という話だし、意図して遭遇する手段は必ずあるはずだった。
外から入れないなら内側からならどうかと考えた俺は、圭太の自室に潜伏し出現を待つという方法を試すことにした。
圭太の食事に睡眠薬を盛り、寝てる間に部屋の収納に潜り込む。御札を貼った薙刀(包丁を竹竿にくくりつけたもの)だけが唯一の武器だが、何もないよりはましだ。息を殺し、その時を待った。
寝ている圭太はかつての圭太そのものだった。穏やかに寝ている姿を見るのはいつぶりだろうか。気づくと涙が頬を伝っていった。そして、この幼気な息子を変えてしまった八尺様への憎しみがますます高まるのを感じた。
潜伏から3時間と少しがたった。この状態でまつ3時間はとてつもなく長く感じる。収納の中膝を抱えて座っているが、さすがに体が痛い。圭太が目覚める様子もないため、一度体を伸ばそうと思ったそのときだった。
急に部屋の気温が下がったように感じたと思うと、たちまちあの悪寒に襲われた。わかる、あいつが来る。子供の頃親友の武雄を奪い、今度は俺の家族まで奪ったあの化け物が。
八尺様を招き入れるため開けた部屋の扉は死角で見えない。だが寝ている圭太は見えるため、八尺様が圭太に手を出したところを、背後から攻撃する。無策だが、やらずに死ぬよりはましだ。薙刀を握りしめた手に力が入る。
一秒ごとに悪寒が強くなっていく。震えで音を立ててしまわないように、精一杯力む。
八尺様は一向に現れない。もう、今にも気を失いそうだった。
限界だった。一度戸を閉めよう。そうすれば悪寒は消えるかもしれない。
内側からは締めにくい戸の隙間に爪を引っ掛けて必死に閉じようとする。手が震えすぎてうまく爪が引っかからない。いや、引っかかっているけどうまく力が入らない。とにかく、閉まらない。
いや、違う。何かが挟まっていて動かないのだ。戸の枠にハンガーかなんかがぶら下がっていて、閉じないようになっていたのかもしれない。そういえば妻はよくそこにハンガーを掛けていたっけな。
そうして障害物を確かめるために上げた視線の先にあったのは――。
真っ白な4本指と、薄ら笑いを浮かべた真っ赤な瞳だった。